【歴史が嫌いな人は飛ばしてください】   熊野王国編 その2    その1)(その2)(完結


 那智山にある青岸渡寺。寺院としての社殿が建ったのはやっぱり後代らしいが、350年頃にインドから
ダイレクトでやってきた裸形上人が修行した場所で、道場があった場所である。
 日本の仏教伝来定説は527年か552年。これは朝廷が公認した年、と言う意味で、それ以前から
非公式ながら仏教は伝来していたワケだ。三国志にお坊さんが1人も登場しないとおり、仏教が中国に
広まったのは300年頃からである。ってことは日本と中国にほぼ同時に仏教が伝来していたワケで、
これは独自の海上交通ルートがあったという証拠だ。インドまで直接じゃなくても、中国南部や東南アジア
経由としても、各国の海洋民族を巻き込んだ広範囲の海上交通ルートが確立していた事になる。


 さらにさらに。「四国八十八箇所」や「坂東三十三観音」のように、熊野にも巡礼用の摂社がある。
これを「熊野九十九王子」と言い、大阪南部〜和歌山全域に分布する。熊野大神の99人の御子神を祀る、
という名目だ。これもまた独特な匂いがする。
 この九十九王子社は街道沿いに1直線に並んでいる。面ではなく線で分布するので、これは実際に熊野
諸族が99支族あったとするより祭祀用と考えたほうが自然だろう。日本では「多い」という意味を示す時は
「九」ではなく「八」か「百」を使う。あまり見慣れない数字である。この99はドコから来たか。
 中国を見渡してみると、ジャストな数字が見える。周の文王・姫昌だ。99人の王子を持ち、太公望をスカウト
するなどして周王朝の礎を築いた聖王である。周王朝は実際に存在したが、その草創は神代記に属する。
熊野九十九王子社は、熊野王国がこの聖王になぞらえて祀ったモノ、とすると、すごく自然に決まってくる。


 まだまだ出るぞ。雑賀孫一や熊野湛増が事あるごとに使った「俺はヤタガラスの子孫だ」のセリフ。
これは「お前らには義理立てしない」という拒否の意味の時に使われた。これはヤマト民族に対し、自分らは
違う民族だから、という差別化の現われじゃないだろうか。強引だが、歴史的に見ても(そもそも歴史にあまり
関与してこないけど)熊野エリアがヤマト朝廷や戦国大名に従順であった事が無い。何か雰囲気が違う別格
の地である。


 まだあった!牛王文字!熊野独自で発展した、日本語とは一線を画する文字だ。漢字とも梵字とも違う
象形文字だ。これは読めん!無理じゃー!





 以上! いろいろ考えてくと!!

 中国の文化を受けた、高水準の文化レベルを持った、大和朝廷とは違う王国が熊野に存在していた!

   (提供:僕の見た秩序

 そして名前どおり、八只鏡は熊野民族の所有物だ。そして草薙剣は韓国民族の所有物。この2つが
3種の神器になってるって事は、どこかでヤマト朝廷に吸収されたか、逆に熊野民族がヤマト朝廷を乗っ
取ったか。なんにせよどこかで衝突があったはずだ。目標は両者の国境そして河内王朝があった、
大阪南陸部ー!行くぞーヽ(`Д´)ノ